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ウィレム2世 (オラニエ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィレム2世
Willem II
オランダ総督
オラニエ公
在位 1647年 - 1650年

出生 (1626-05-27) 1626年5月27日
ネーデルラント連邦共和国デン・ハーグ
死去 (1650-11-06) 1650年11月6日(24歳没)
ネーデルラント連邦共和国、デン・ハーグ
埋葬 ネーデルラント連邦共和国デルフト、新教会
配偶者 メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート
子女 ウィレム3世
家名 オラニエ=ナッサウ家
父親 オラニエ公フレデリック・ヘンドリック
母親 アマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルス
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結婚当時のウィレム2世とメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート(1641年)アンソニー・ヴァン・ダイク

ウィレム2世(Willem II van Oranje-Nassau, 1626年5月27日 - 1650年11月6日)は、オランダ総督オラニエ公(在位:1647年 - 1650年)。オラニエ公フレデリック・ヘンドリックアマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルスの息子で、イングランドウィリアム3世となったウィレム3世の父。

人物略歴

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1641年、14歳の時にイングランド王チャールズ1世の長女メアリー・ヘンリエッタと結婚した。1647年、父フレデリック・ヘンドリックの死後、20歳でオラニエ公位と総督職を継承し、ヴェストファーレン条約の成立により八十年戦争を終結させた[注釈 1]

ウィレム2世はオラニエ=ナッサウ家の歴代諸公と同様に軍事に優れ、性格的にも軍人肌であったといわれる。姻戚関係から親英政策をとっていたが、1649年清教徒革命が勃発してチャールズ1世が処刑され、イングランドに共和政が成立すると、ステュアート朝の王位回復のために奔走した[2]。しかしオランダ共和国で最有力の州であるホラント州が反対にまわり、国内でウィレム2世支持派と反対派の間で対立が生じた[2]。そのため翌1650年、ウィレム2世は反対派の有力メンバーを拘禁し、アムステルダムを包囲するなどして反対派を屈服させようとしたが、11月6日、事が成就する前に24歳にして天然痘で急死した[2]。一人息子のウィレム3世が生まれたのはその8日後の11月14日のことだった[2]

ウィレム2世の死によって反オラニエ派は勢力を挽回し、主要な州が総督を置かないことになり、無総督時代が始まった。また、各州の主権が拡大されて連邦議会の権限は弱められ、軍総司令官も置かれなくなって、オラニエ=ナッサウ家の影響力が大幅に削がれることとなった。

ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ^ 父フレデリック・ヘンドリックは、州総督および陸海軍最高司令官として対スペイン独立戦争(八十年戦争)で大きな戦果をあげてオラニエ家の威信を内外に高めた一方、フランス風の宮殿を造営して宮廷生活を送り、イングランドのステュアート家やブランデンブルク選帝侯はじめドイツ諸侯とのあいだに姻戚関係を結ぶなど王朝的外交を展開していた[1]

出典

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  1. ^ 佐藤 1998, pp. 255–256
  2. ^ a b c d 佐藤 1998, pp. 255–257

参考文献

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  • 佐藤弘幸 著「第二部 オランダ」、森田安一 編『スイス・ベネルクス史』山川出版社〈新版世界各国史14〉、1998年4月。ISBN 4-634-41440-6 

関連資料

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  • G.W. Kernkamp (1977) Prins Willem II 1626 - 1650
  • Cd. Busken Huet. Het land van Rembrand (1882-1884)–– Auteursrechtvrij(オランダ語)
    • Studiën over de Noordnederlandsche beschaving in de zeventiende eeuw [17世紀の北オランダ文明に関する研究] VORIGE(前編) / VOLGENDE(後編)(オランダ語)
    • "V Willem de Tweede" [仮訳:第5章「ウィレム2世」] pp. 297-304.

関連項目

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先代
フレデリック・ヘンドリック
オラニエ公
1647年 - 1650年
次代
ウィレム3世

外部リンク

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